alsdaskind’s diary

映画の感想にはネタバレがあります

作品というか、ルックバック絡みのことがずっと嫌な話

ルックバックが嫌な理由の続き。
前記事「ル」の続きみたいなもの。

相変わらずめっちゃ個人的な話ばっかしてるし、詳細説明を省いているので文脈は私の中にしかない。

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・藤本の漫画は映画の雑コラという話
「映画の手法をうまく漫画に落とし込んでいる」という見方もできるが、私は映画が好きなので、今までの映画鑑賞体験を踏まえると藤本の漫画は映画の雑コラに見える。チェンソーマンは特にそう。ルックバックはなんていうか、「オタクってこういう目配せ好きでしょ?(目配せ=引用や参照、オマージュやパロディ) オレはそういうの「得意だから」見せてあげるよ」を感じた。
それら参照元にリスペクトがない。踏み台って感じ。扱いが雑。漫画を描くために必要な紙やペン、ペンタブ類と同レベルなただの道具みたい。だから「映画の雑コラ」に見える。

オタクは被差別階級だった歴史があって、それでオタクが仲間内で強く結束し仲間意識を持つためのジャーゴンのような? 引用や参照の共有が行われていたと思うんだけど、それにしても藤本の漫画からは引用・参照元に対する敬意が見えないし、こういうのが好きなオタクってそういう「雑な扱い」でも「これを理解できるオレたち」で繋がりたがるのかな、と思う。

 

・ルックバックで軽率に感動する人間は「ちょろい」なと思ったこと

物語というのは仕掛けによって出来ていて、たとえば人が死んだら悲しいし、顔面を強く殴られたら痛い、みたいな多くの人が常識として共有している感覚、それを各所にイベントとして配置していって、その仕掛けがうまく作動すると人の気持ちが動く。それに無自覚な人がとても多いと思った。感想を検索した観測範囲で。

「感動した」「刺さった」「救われた」「これは祈りだ」「神漫画」って言ってたような人たち。

 

で「ルックバックで軽率に感動するような人間ってちょろくないですか?」って話をしたら、「創作体験の有無はあると思う」というコメントをもらった。

その人の観測したところでは、創作をやっている人々からは発表当初から懐疑的なコメントが割と出ていたらしい。

物語を作ったり、作り続けている人、また鑑賞者としてでも構造の分析を繰り返している人でないと「ちょろい」のかな。これはたぶん、完全に個人個人の体験や生きてきた生活の履歴に依存する。でもやっぱり私はルックバックを読んで軽率に感動している人間はすごくちょろいと思う。

 

・「創作」というものの存在意義が脅かされているように感じた

からこんなに長いあいだ藤本を持ち上げる取り巻きを批判しているんだと思う。

ルックバックという作品自体よりも、あんな中身のない、「人間」の存在しない張りぼてのフィクションを高く評価する層がそれなりの数いることにうまく言語化できない、でもかなり強い嫌悪感を感じている。

なんでこんなに藤本やルックバックについてグチャグチャ考え続けているんだろうと思って内省してみたんだけど、創作という場が培ってきた創作の存在意義が危うくなっているような感覚があることに気づいた。

 

魂を持たないお人形をいじくり回す営み(だと私が感想を持っているもの)が高く評価されていることについて、というかまあ具体的な数はわからないけどジャンプで人気作家として扱われていたり、チェンソーマンやルックバックを好きだという人間の声がSNSに多数存在することに対して、これまで自分が「創作の場でやる意義があること」が侵食されるような感覚があった。


漫画としての技巧レベルが高ければそれだけでいいのか?
創作をしている人でもこれを絶賛している人を見た。アマチュア時代から商業誌に描くようになっている現在まで10年以上活動を見ていた人だったが、なんかすごく無邪気な感想だなあと思った。漫画を描く人にとって漫画が上手いことは崇拝の理由になり得るが、中身のない、そこに「人間」の存在しない、鑑賞者に対して人間にまつわる問いかけを持たないフィクションでも、物語を仕掛ける手際がよければそれだけでいいのか?

これは反語ではなくて、純粋に本当にわかっていない。

 

作品を制作・鑑賞する感覚が時代の流れによって変わっていて、それに自分がついていけていないだけなのかどうかはまだ正直わからないし、その可能性もある。

もし藤本と知り合いで、対面で話すようなことがあったら、「漫画が上手だね。でもまだ人間は見たことないのかな?」って訊くと思う。

藤本の漫画には人間がいない。