alsdaskind’s diary

映画の感想にはネタバレがあります

教育とかの話

民間で教育関係の労働をして賃金を得ていたときの名残で居住している市区町村の小中学生に学習支援をする指導員的な立場の人の募集が回ってきた。

私はもうこれからの人生において生活費のための賃労働をする気は微塵もないのだが、感染症対策等々もあったし公立校においてはさぞ大変な時期を過ごしただろうという思いからくるボランティア精神でちょっとやってみようかしら、という気になった。多分やらんのだけど。

やる気のない人と同じ場所で活動することが本当にしんどい。「賃金のため」と割り切って誰も聞いていない学習指導をすることは可能だが、精神に拭いようのない澱みが溜まる時間を耐えることになる。今回の募集があった公立校の生徒たちにまともなやる気があり教育の施される時間を耐える集中力のある人員で構成された現場なら問題はないのだが、募集内容を見るに椅子にじっと座ることすら難しいレベルの学習者たちなのではないかと推察される(これは完全に勝手な推測)。

私は本当にやる気がない人に何かを教える気がしないので、「やる気がねえなら教室から出ていけこのクソガキ」と怒鳴りつけない自信が無い。

争いは同じレベルでしか発生しないというからクソガキにマジギレする私もクソガキと同レベルの魂ランクなのだと思う。自覚はある。

勉強する気のない人間がなぜ教場にいるのかわからない。いやそれら教育産業というものは資本主義的に考えれば当たり前に「保護者が金を払い塾や家庭教師から子供の点数を買うという仕組みで成り立っているサービス」なのだが、人に何かを伝える立場として人前に立った経験を考え直すとその何かを受け取る気が全くない(ように見受けられる)人間がなぜその場にいるのか私には理解できない。やる気を出せるように導こうという気も起きない。

私はとにかく学校という場所が嫌いだったのでもう関わりを持ちたくなくて教職課程は取らないことを進学当初から決めていて、なので教員免許も持っていないのだが、民間の教育産業の現場ではなく公教育の方がもしかしたら仕事としては性に合っていたのかなあと思ったりする。

だが公教育の場でしばしば散見される「私がこの子たちを教化して"あげる"のだ」というスタンスは非常にグロテスクなものだとも思っているので、そしてそういう態度には気を抜くと陥ってしまうことがあるので、まあなんか、教育には直接的に関わらない人生でよかったんじゃないかな、と思う。