alsdaskind’s diary

映画の感想にはネタバレがあります

映画「花束みたいな恋をした」感想と菅田将暉には暴力が似合いすぎる

「花束みたいな恋をした」は現時点で3回通しで観ている。

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初回はひとりで、二回目はひとと、三回目は移動中にひとりで観た。

 

・初回の感想

映画がうまい。

ただひたすらに映画がうまい。脚本も撮影も編集も構成もいい感じに展開して収束する。上手な映画だと思った。ちなみに一番泣けた台詞は、終盤あたりの別れのやりとりではなく、仕事で余裕がない菅田将暉の「(息抜きにならないんだよ 頭入らないんだよ)パズドラしかやる気しないの」(エンタメコンテンツの消費を勧める有村架純に対して)。

要約すると「久しぶりにおいしいもの食べた感じ」。うまい映画。

 

二時間ほどある邦画の恋愛モノでも最後までしっかり集中してみられるほど造りがよかったな、と思った。というか私が日本の恋愛映画を基本的に粗悪だと感じているのは少女漫画原作の、キャストによって客が呼べればそれでいいような姿勢を見せる映画の作り手たちによるものが根源なのかもしれない。漫画原作の映画が全て悪いわけではないが、原作ファンからすると映画のかたちに再構成できていないものも多いし、やはりオリジナル脚本の映画は良い。

私は気になった映画は他人の感想やレビュー記事や考察もろもろを一通り読み漁ってからもう一度観なおすことが多いのだが、この花束は「めっちゃ映画が上手」ということで気になっていろいろ調べて二回目に臨んだ。

 

・二回目の感想

いろいろな感想や考察をしている人たちの発見を再確認していった。絹が「天竺鼠」のことを「てんじゅくねずみ」のように言っていることとか。 

そもそもの映画のストーリーの展開と収束の仕方もうまいし(それにまつわる撮影・構成上のテクニックも多分に散りばめられていて(たとえば入居の時はインド綿の日除け布を二人で広げ、退去の時は二人でそれを畳むような、わかりやすく映像的に意味があり美しく思える描写))、あと菅田将暉有村架純をメインキャラクター起用することで「恋愛映画」を観に来る中高生や若者層を取り込み、坂元裕二のオリジナル脚本、監督は土井裕泰というところで普通の映画好きも取り込んでいるところがマーケティング的に超上手な作品だった。

 

・三回目を観終わってから、周りの人の雑感なども聞いてみたあとの感想

自分が共感能力に乏しい人間だからかなのかわからないがこの映画に入れ込むところはなかった。ただただ「上手な映画」「技巧的に洗練された映画」「売り方がすごく上手な映画」だと思った。そういう意味で感動した。ストーリーの本筋は「趣味が同じというだけで5年付き合った男女が同棲して別れるだけの話」なので、そこで特に心が動くところはない。(これは余談だが私は「登場人物に共感できなかったので星1つです」という映画レビュワーの気持ちが全くわからない。)

「固有名詞の頻用やこれまで焦点が当てられてこなかった人物たちの描き方に対して「これは自分の話だ」という風に捉えて作品への共感度が高い人が多いらしい」という話を聞いたが、自分がこの映画と一体感を感じるところは全くなく、ただただ上手な映画で、なんというか皮肉が利いているような感じがして、こうやって私がブログに記事を書いているように感想が人の口に広まることまで含めてたいへんに上手な映画だと思った。「「サブカル男女のキモさを槍玉に挙げる」ことのキモさを槍玉にあげる」みたいな部分も。

どうしても聞き取れなかったオダギリジョーの「ラーメン食べに行こうか」は三回目にしてようやくそれらしい言葉が聞こえた(それまで何言ってるのかわからなかったシーン)。邦画も字幕ほしい。

唯一自分も同じことをしたことがある、と思ったのは冒頭部分の麦のマンションへ投函された分譲マンションのチラシのシーンである。「月5万8千円のアパートの郵便受けに入っている3億2千万円の分譲マンションのチラシ、今年イチ笑った」という台詞で、私も全く同じ状況にあったことがある。当時東京で月5万円しなかったアパートの集合ポストに2億円くらいのマンションの広告が入っていて、「ターゲット層違いすぎるでしょ」と笑い話にした。しかし今年イチ笑うほどのネタではない。

そういう「(任意の皮肉な事象)、今年イチ笑った」などと言ってしまう麦の中二感、というか「自分は他人とは違うものの見方をしていて、それを密かに誇りに思っていますよ」という態度、その語り口が昔の自分と重なって無理な人は無理らしい。そういう感想を見たり聞いたりした。

 

ところで、菅田将暉と暴力の相性が良すぎるという話がしたい。

菅田将暉の名前自体はよく目にするメディアで流れてくるので字面だけは知っていた。米津玄師と関わりがあるらしいのもそのことだけ知っていた。本業は音楽の人っぽい。

野木亜紀子脚本の「MIU404」の悪役ポジションで出てきたのを見て初めて「これが菅田将暉か~」と認知したのだが、実はすでに観ていた朝井リョウ原作の映画「何者」も出演していたので、視界には入っていたけども印象がとても薄かったんだと思う。

「何者」ではヘラッとしたふわふわの役柄だったがMIU404作中ではよく切れる剃刀のような、でも何を考えているのかまるでつかめないような目つきをした得体の知れないキャラクターを演じていて、それがとても似つかわしいと思った。役が人にすごくハマっていた。

私は綾野剛高橋一生二階堂ふみ長澤まさみのような、役ごとにその人から発せられる空気も態度も全く異なる演技をするいわゆるカメレオン俳優が好きなのだが、というかシンプルに演技が上手な俳優が好きなのだが、「カメレオン俳優」で検索してみたところ、菅田将暉は検索トップ記事のランキングではカメレオン俳優度が1位だった。

私の中に菅田将暉がカメレオン俳優という印象はあまりなかったのだが(むしろヘラッとふわふわした「若者」役が多いなあというイメージでいた)、MIU404と「花束みたいな恋をした」で共通して思われたのは「この人暴力がめっちゃ似合う」ということである。

 麦が東京湾に荷物を捨てたトラックドライバーの対策本部を任され、そのドライバーを「なんかうらやましい」と表現する後輩に対して苛立ちを抑えきれず書類をぐしゃっとやって投げつけかける(未遂)のシーンとか。感情の昂ぶりとそのハラスメント感がすごいリアルに出ていて、というか自然に発生するハラスメントそのもの、みたいな緊張感で暴力的なことが画面上に発生していた。

人間の持つ悪意、のようなもの、特に「敵意」や「害意」を自然に表現するのが菅田将暉は本当にうまい。リアルすぎる。

MIU404ではそれが形の見えない「悪意」的なものの表現だったが、花束では暴力的な見た目をしている振る舞いの表現として演じられている。書類投げつけ未遂に加えて絹の転職についてガン詰めするところもそうだ。攻撃的な態度がすごくうまく表現されていてよかった。

 

まとめると、「花束みたいな恋をした」はおいしく摂取できる映画だったし、菅田将暉は暴力表現がめちゃくちゃ似合うし上手なのでもっとやってほしい。

 

(追記:今確認したら既に観ていた映画「二重生活」(2016)にも菅田将暉出演してた。溶け込みすぎやろ)

 

---6/23追記---

「映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由」
稲田 豊史
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647

上記記事を読んで、花束の映画についても同じことが言えるのだと思った。
結論としてトータルで時流に乗っている「上手い」映画という感想は強化された。
導入から有村架純絹と菅田将暉麦の自己紹介(プロフィール独白)から始まり、説明の要らなくなってきた中盤でモノローグは少なくなっていき、また終盤で少し語りが増える。中盤ごろまでは常にどちらかが何かをしゃべっている状況。鬼滅も呪術も原作・アニメともに見てないのだが見た人によると台詞で全部説明している傾向が強いらしい。花束もそういうやり口で全部ことばで説明しているなあと指摘されると改めて思った。
映像を読み解くリテラシーの高低に関わらず楽しめる作品だからウケたっていうのは絶対あるよなあ。
そこには言及できていなかったので、気づきとしての追記でした。

通学路にあったパン屋の話と遺失物について

高校の帰り道にあるパン屋があった。

記憶が正しければ、朝からあいているのではなくて、午後の3時ごろから6時まで、くらいの短い営業時間の店だったように思う。

私は道でふらふら見かけたものに寄っていって買い物をする(これを無駄遣いと呼ぶ)のが好きだったし、また今もその性質は抜けきっていないと思うのだが、お昼ご飯以降は持ち込んだお菓子をつまむくらいしかしていない高校生の腹には帰り道にちょうど食べ物屋さんがあるということで嬉しく、たまにパンを買っていた。

すごく狭い店内で、ちょうど回の字のように店の中央にパンを載せる台、あと回の字の左側のL字の部分に商品が陳列されているような形で、回の字の上のほうがレジ、という並びだったと思う。下が出入口。もうその店は無いので確認しようもないのだが。

秋か冬頃の夕方で、うすら寒かったと思う。または真夏で、店内がクーラーでキンキンに冷えていたのかもしれない。とにかく寒かった。外は暗かった。時間帯にしては暗いなと思った気がするから、やはり秋冬のころだったのだろう。

私のひとつ前に会計を済ませた学生が、参考書やノートの詰まったケースをレジの足元に置いたまま忘れていって、その時レジ係をやっていた中年女性が困っていた様子だったのを見た。

「これあなたの?」ということを訊かれた気もする。私は否定したはずなので、「じゃあさっきの子のだね」という流れになり、そのパン屋の近くには駅があったので、「忘れたまま電車に乗ったかもしれない」「どうしよう」などと二人で話したような記憶がぼんやりある。

あのケースの名前がわからなかったので検索したら、キングジムではキャリングケースと名前がついていた。ちょうどこんな風体のプラスチックや樹脂っぽい質感の手提げで、調べてみた感じではブリーフケースというのが近い。

 

www.askul.co.jp

結局その忘れ物をした学生が自分で気づいて取りに戻ってきたのか、解決しないままひとりパン屋を出たのかそのあたりの記憶も完全に曖昧なのだが、店員が困っているのを見てすごく寂しいと思ったのをまだ覚えている。というかなんでこんなにこの記憶だけピンポイントで通学路に関して覚えているのか考えてみたら自分の中で感情が動いていたからだという感じがした。

寂しいというのは持ち主が忘れ物を回収できない可能性があるということもそうだし、忘れられたものが持ち主のもとへ帰れないこともそうだ。

その学生にとって大事であろう参考書やノートが詰まっているケースが行方不明になることに加え、大事にされていただろうモノたちに勝手に人格を与えて「心細いのではないだろうか」とぼんやり考えていた。買いなおすにしてもそれだけでお金がかかるし、自筆のノートに書いてある、自分なりに頭の中で編集してメモした授業内の情報などは買えるものではないし。そしてパン屋の中年女性はその学生のことをとても気にしていた。「困ってないだろうか」という意味で。

自分のことに置き換えて勝手に想像する傾向が昔は今よりももっと強かったのだと思う。私は忘れ物や失くし物をするとめちゃくちゃダメージを受けるタイプで、忘れ物に関しては取りに戻れればいいのだが「取りに帰る時間がもったいない」とか「取りに行く時間がないけど使うことになったらどうしよう」とか、失くし物については「それが戻ってこなかったらどうしよう」と不安を募らせる傾向が強い。それを他人のものにも当てはめて「戻ってこなかったらすごくショックだろうな」と思って、「寂しい」と感じたらしい。今考えると、というか訓練された認知ならそれらは「そのときになったらそのときに対処すればいい」という予期不安撃退のフレーズで無視できるものかもしれない。

また、体があまりに冷えているととネガティブ寄りの思考になるのはたいていの人がそうだと思っている。不安感も増しがちになる。

今よりも過敏だったころの、自分だったら……という気持ちはけっこう覚えているものだな、と思った話。

タイトル忘れてた

筆名用のブログを開設した。とりあえずこれでやっていく。

なにかいろいろ書きたかったことがあった気がするが歩いているうちに全部忘れてしまった。とりあえず今日の予定をこなす。

雑誌の寄稿記事や個人誌の元ネタになるような雑多なことを書いていくと思う。あと映画や本の感想。よろしくです。